鹿島神宮の研究
R.6.5.19更新
鹿島神宮二の鳥居 門前の夜景 令和5年撮影
【日本神話と現実】
今東西、時の最高権力者は自分を神格化することで、さらなる権威の向上を目指してきました。国土情報社は、『古事記』に記載されている日本神話は、天皇家が自らを神格化するためにつくったのものであるという大きな流れをもとに見なければならないと考えます。つまり、実話100%だと有り難味が足りないので、神格化というステージを踏んで、自らの有り難味を創出し、権威の絶対化を図ったものとの仮説を立てました。逆の言い方をすると、日本神話は創作100%の荒唐無稽な作り話ではなく、それが書かれている『古事記』や『日本書紀』は実話と創作が入り混じって作られたものであるという仮説です。国土情報社は、『古事記』に残された実話の部分を特定し、実地調査を行うことによって、仮説を立証するプロジェクトを推進しております。
【鹿島神宮】
天地創造の神イザナギ。その子である太陽の神天照大神(あまてらすおおみかみ)。さらにその子ニニギが花が咲くように美しいコノハナサクヤビメ(笠沙の岬の娘とも、高千穂の娘とも)と結婚し生まれたのが神武天皇です。コノハナサクヤビメの父オホヤマツミから岩のように永遠の命、繁栄継続の力を持つイハナガヒメも同時にニニギに送られたが、見た目が良くなく返されてしまった。それで、神武天皇の時から、繁栄はするがいずれ終わりを迎える、神も死ぬということになった。いろいろ調べると興味深い神武天皇ですが、神武天皇の即位した年と鹿島神宮の創建された年が同じ神武天皇元年(紀元前660年)になっているのです。両者のつながりがただならず強いと見るべきでしょう。
【三大神宮】
神宮とは最高格式の神社を指し、明治以降、国策により神宮の数が急増しました。しかし、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)によれば、鹿島神宮と香取神宮が、伊勢神宮とともに日本三大神宮に位置づけられており、神宮の存在が稀少である状態は江戸時代が終わるまで続きました。このように稀少である三大神宮のうちの鹿島神宮と香取神宮は当時の都からははるか東の果てにあり、鹿島神宮と香取神宮はお互いに非常に近い場所にあります。つまり、天皇家にとってゆかりのある日本三大神宮のうちの二つが、当時の都から見てはるか遠方、東の果てに近接して存在していることになります。これは、すなわち、現人神(あらひとがみ)の最初とされる初代天皇である神武天皇の治世、鹿島神宮と香取神宮のある地域一帯に天皇家のルーツに当たる大勢力が根付いていた痕跡と考えられます。
【鹿島神宮周辺】
『古事記』によると、高天原(たかまがはら)は天照大神が治める国とされています。その高天原という地名が、鹿島神宮の直ぐ近くに残っています。天照大神(あまてらす)の治める高天原の直ぐ近くに鹿島神宮があり、その鹿島神宮は天照大神の孫の神武天皇即位の年に建てられたのです。そして、鹿島神宮はその後長きにわたって、日本三大神宮に位置づけされているのです。
【現地調査】
国土情報社は、神武天皇の時代の鹿島神宮周辺には大規模な都市があったのではないかとの仮説をもとに実地調査を行っております。令和5年(’23年)、令和7年(’25年)に行った鹿島神宮における現地調査では興味深い事実が浮かび上がってきました。本調査では、独自の視点で鹿島神宮の真実に迫ります。
鹿島神宮の夜明け 令和5年撮影